美しい日本刀と日本人

昨今の刀剣ブームは、日本刀の魅力を現代に伝える上で日本の歴史への興味を若者世代に植え付ける大きなキッカケともなっています。

これまで日本の歴史のなかで「日本刀」は、「かたな」「たち」「つるぎ」などと呼ばれてきたようです。「日本刀」という言葉は、主に諸外国から見た日本で製造された日本製の刀剣を意味するものであったので、日本国内では日本刀のことを人びとは「かたな」「たち」「つるぎ」などと呼んでいたそうです。

「かたな」「たち」「つるぎ」は時代とともに、その姿を変化させる日本刀への呼び名の変化であります。日本人が「日本刀」という言葉を使い始めたのは、明治維新以降ではないかと考えられているようです。

鉋切長光

室町時代、江州堅田(滋賀県大津市)の武士・堅田又五郎が日暮れ時伊吹山の山中を歩いていた時突然一緒に歩いていた出入りの大工が又五郎に襲いかかってきた。又五郎は枯市の小太刀を抜いて素早く斬りかかった。

大工は手に持っていた鉋で又五郎の振るう太刀を素早く受け止める。すると鉋は真二つに斬られ、大工もろともすーと消えていった。この出来事から、又五郎の小太刀には、「鉋切」の異名が付けられたという。

鉋切は備前長船派の刀匠・長光作。その後織田信長、丹羽長秀らを経て将軍家に渡り、現在は重要美術品に認定され、徳川美術館が所蔵している。

日本刀の“産地”

「産地」と言うと、ちょっと変に思うかもしれませんが、日本刀が主に作られている地域を調べてみました。

古刀で見ると、作られていた平安時代の頃に有名な刀工がいた場所は、大和(奈良)、山城(京都)、備前(岡山)、相州(神奈川)、美濃(岐阜)の五カ所となります。

・山城(京都)
山城では、平安中期から江戸初期まで盛んに作られ、著名な刀工は、粟田口(あわたぐち)、三条派、来(らい)派などが知られています。
山城の日本刀は、地金は板目流れごころがあり、刃文は直刃仕立ての優美なもの多いようです。
また、山城も大和と同様に、大量の木炭と良質の砂鉄の調達には不向きな土地にもかかわらず、日本刀が作られるようになったのは、京に都があったからでしょう。

・備前(岡山)
備前は吉野川下流を中心に栄え、長船派、一文字派、畠田派が知られています。
備前の特徴は、焼き入れの温度が低いことにより刀身が堅くならず、折れたりすることが少ないと言われています。
また、一文字派は丁子乱(ちょうじみだれ)の刃文が有名です。
備前は、平安時代から幕末にかけて、長い間作り続けている土地です。
それは、他の産地に比べ木炭や良質の砂鉄が取れ、刀作りに適した土地柄だったからです。

日本刀の部位

“柄(つか)
刀を持つときに握る部分で、とても重要な部分です。
刀身の茎(なかご)の部分に木でできた柄を取り付け、目釘を打って固定します。
その上に握りやすく、滑りにくくなるように、柄糸を巻き、柄がしらをはめて仕上げます。
この糸の巻き方で、日本刀の価値が変わることがあります。
なぜなら、美術品としての日本刀の中でも、価値を決める重要な部分だからです。

鍔(つば)
刀を持つときに手を保護するためや、刀全体のバランスを調整するための金具です。
また、刀で突いたときに、握った手が刃に届かないためでもあります。
円形や角形など形があり、彫刻がされたいたり、透かし彫りになっている物もあります。
そのため、鍔だけでも美術品としての価値があります。

鞘(さや)
刀身を納める筒です。
木製で、主に朴の木が使われていました。
朴の木はあまり堅くなく、強度もありますので、刃を痛めず、しっかりと守ることができます。
西洋の刀剣では金属を使った物もありますが、日本刀では金属を減らし、軽く・刃を傷めない材質を使うようになりました。
なお、「反りが合わない」と言う言葉は、日本刀の刀身と鞘の「反り」が合わないと、刀身が鞘に収まらないところから来た言葉です。

日本刀は、このような微細な作りの積み重ねによりできています。
この緻密さが美しさにつながっているとの見方もできるでしょう。”

薩摩国の刀工

安次という日本刀の工は、南北朝時代中期の薩摩国の人だそうです。安綱という日本刀の刀工は、平安時代後期の伯耆国の人だそうです。古伯耆。遺例に「童子切」といって国宝に指定されている名物があるそうです。源頼光が酒天童子を切ったという伝説がある太刀だそうです。豊臣秀吉から徳川家康、秀忠、越前松平家の松平忠直へ伝来したそうです。他にも大垣藩主戸田家に伝来した太刀があるそうです。安信という日本刀の工は、南北朝時代後期の越後国の人だそうです。山城国信國の門人だそうです。作風としては、小湾れに互の目・箱乱れ刃を交えた沸出来の刃文に金線・砂流しが激しく絡んで、相州伝を強調した信國風だそうです。また、信國風の刀身彫の作品もあるそうです。康重という日本刀の工は、安土桃山時代の武蔵国の人だそうです。山本藤右衛門尉。武蔵国下原出身だそうです。滝山城主大石源左衛門尉定重、同氏の養子に入った北条氏照に仕えたそうです。氏照について小田原に入ったそうで、城下にて作刀をしたそうです。作風としては、地鉄は如鱗杢とよばれる下原独特の杢目肌が顕著だそうです。茎は村正に似たタナゴ腹茎に仕立てているそうです。康春という日本刀の刀工は、室町時代末期の相模国の人だそうです。小田原相州鍛冶。本国は駿河国島田だそうです。義助の門人だそうです。初めは泰春と銘したそうです。草の倶利伽羅や蓮台、梵字、護摩箸などの刀身彫りも得意だそうです。康光という日本刀の工は、室町時代の初期、備前国の人だそうです。左衛門尉。応永備前の代表の工の一人だそうです。永享年間に活躍した二代も出来が優れていたそうで、年紀がない場合は、初、二代と区別は至難なのだそうです。

波遊ぎ兼光(なみおよぎかねみつ)

備前長船二代兼光作。川に飛び込んで逃げようとする敵に追いつき、背後から斬 りつけたが、斬られたはずの者はそのまま川に飛び込み、泳いで逃げていく。打ち損じたのだろうか?いや、そうではない。向こう岸に辿りつき水から上がった途端 に、体が真っ二つになった。あまりの斬れ味に、斬られたことにも気付かず泳ぎ続けたとでもいうのであろうか。そんな日本刀のエピソードが残っています。

「かわりばんこ」と日本刀

日本刀にまつわる日本語が数多くありますが、「かわりばんこ」も日本刀を作る刀鍛冶屋で使われた言葉であるとされております。日本刀を作るための材料でもある「鉄」は、自然界には「鉄」として存在していないため砂鉄などに含まれる鉄分を炭素と結びつけて還元するかたちで取り出さなくてはならないようです。砂鉄から鉄の成分を取り出す「たたら場」は、3日3晩の間中人々が原料を炎で熱し、日本刀の材料となる鉄を取り出していたと言われています。灼熱の炎の中で行う作業を3日3晩睡眠をとることなく行うことは、不可能でありますので「たたら場」で働く者たちが交代交代に火の番をしながら「ふいご」と呼ばれる装置を使って炎が燃え盛る炉に空気を送り続けていたと言われております。火の番をするこの者たちは「ふいご」を踏み続けながら炉に空気を送っておりましたが、この作業を行う人々のことを「番子(ばんこ)」と呼び、「番子」が変わるという意味を持って、「かわりばんこ」などといった言葉が生まれたのではないかと考えられているようです。

左文字の一振り「江雪左文字(こうせつさもじ)」

「江雪左文字(こうせつさもじ)」は、戦国時代、関東をおさめた北条氏 に代わって、豊臣秀吉が勢力を拡大し始めました。 その頃に北条氏に仕えていた板部岡江雪斎の愛刀である「江雪左文字」は、豊臣秀吉に献上されたようです。その後には、徳川家康に送られ、さらには徳川頼宣に渡ったようです。紀州徳川家伝来の方なとなった江雪左文字は、昭和の初めに、市場で売りに出され 美術館蔵となりましたが、現在では個人蔵となりながらも広島県の美術館に寄託されているようです。「江雪左文字」は、相模国の名工 「左文字」の作品であるようです。担当を得意とすることで知られる左文字の作品は、太刀が非常に少ないと言われ現存するものはこの一振りであるようです。小田原を拠点に関東を制圧していた北条氏に仕えていた「板部岡江雪斎」の名と、その作者である「左文字」の中がその名として伝えられています。板部岡江雪斎が、とあることから豊臣秀吉に気に入られたことがその献上のきっかけでもあったようです。

刀工の泰吉などについて

泰吉という日本刀の工は、安土桃山時代の阿波国の人だそうです。海部鍛冶。海部鍛冶というのは「氏」と「泰」を通字としているそうです。室町時代初期から銘鑑にみられるそうです。行信という日本刀の工は平安時代中期の大和国の人だそうです。大和五派の一つである千手院派の祖だそうです。銘がるものはとても少ないそうです。無銘極めの古千手院の太刀の中には、反りが腰元から倒れ込むように付き、直刀から彎刀へ移行する姿を示しているものがあるそうです。行平という日本刀の刀工は鎌倉時代初期の豊後国の人だそうです。彦山三千坊の学頭僧定秀の弟子だそうです。遺例に、鎌倉時代初期の紀の太刀があって、それは重要文化美術品に指定されているそうです。行政という日本刀の刀工は南北朝時代中期、豊後国の人だそうです。豊後国大野郡住だそうです。豊後國行平の末裔と伝わっているそうです。行光という日本刀の工は、鎌倉時代後期の相模国の人だそうです。相州伝の創始者の一人だそうです。正宗の兄、もしくは養父と伝わっているそうです。新藤五国光の門人だそうです。地景・金筋を一層強調した覇気横溢の作風を打ち出した人だそうです。鎌倉時代後期、大和国の行光という日本刀の刀工は、千手院派だそうです。大和物にしては、変化に富む刃文構成となっているそうです。雪景という日本刀の刀工は、室町時代中期の備前国の人だそうです。雪景の初代は南北朝時代末期の年紀がある工だそうです。二代は康光の門人と伝わっているそうです。三代、四代とあるそうです。幸光という日本刀の刀工は、室町時代後期の備前国の人だそうです。六代目の幸光の遺例には優れた技量を窺わせる両刃造短刀などがあるそうです。