注連丸行平について

「注連丸行平」は、紀新太夫行平の作刀。紀新太夫行平は、平安時代末から鎌倉時代初めの豊後国の刀匠。後鳥羽上皇の御番鍛冶の一人。僧定秀の子、もしくは弟子といわれる。元暦年間、罪人となり、正治元年までの16年間を上野国刀祢に流されたといわれる。流罪地は、相模国由井飯島だったとの説もある。別名は、「鬼神太夫」「紀ノ行平」「紀行平新太夫」ともいう。刻む銘は、「行平」または、「豊後国行平」まれに、「方士」「宗安」「宗秀」を刻む。「品」の一字銘を刻む場合もある。銘「注連丸行平」の由来は、神前に横にかけてあったため注連縄に模して称されるようになったという。「享保名物帳 焼失之部」「光悦刀剣名物帳」「駿府御分物帳」等に上々御腰物として記載が見られる。

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