歌仙兼定(かせんかねさだ)・・・細川忠興

細川幽斎の長男忠興は田辺城開城した際「なぜ最後まで戦い抜かなかったのだ」と父を非難した。三成が挙兵した時には、妻ガラシャに「三成軍に捕らえられるなら自害しろ」と命じ、妻はそれに従った。忠興の愛刀が、「歌仙兼定」である。室町時代に美濃国(岐阜県南部)で活躍した刀匠・和泉守兼定」の作である。

 残忍な忠興にしては、ずいぶん風流な号と思いきや・・・

 忠興が手打ちにした人数は生涯で三十六人。それと平安時代の和歌の名人「三十六歌仙」とかけて、愛用の刀に「歌仙兼定」と命名したという。風流のかけらもない残忍な号である。

 長曽ネ虎徹(ながそねこてつ)・・・近藤勇

 長曽ネ虎徹(本名長曽ネ興里)は江戸新刀の代表的な刀匠。始め越前国(福井県北東部)などで甲冑師として知られたが、のちに江戸に出て刀鍛冶になる。

 文久2年(1862)二月、幕府は京における勤皇の志士の弾圧の為関東の浪士を徴募した。翌三年浪士を上京させ弾圧にあたらせることを決した。近藤も京に向かうこととなるが、渡された支度金で虎徹を買うことに決め、早速刀屋を呼び出した。刀屋は探すも見つからず、当時人気が出始めた「源清麿」の太刀を持ち出し、その銘を削って「虎徹」と斬りなおした。近藤は偽と気付かず京に向かった。そのあとの近藤の活躍ぶりは、後世伝えられているとおりである。

 池田屋事件の後、近藤が養父に宛てた手紙の中に、「下拙の刀は虎徹故に哉、無事に御座候」とあり、近藤は虎徹を本物と信じていたことがうかがえる。