武家が興起して勢力を持ち始めてからは、刀剣の性能も充実してきました。この時代に「大刀」は現在でも使われている「太刀」の字に変わったそうです。名前が変わったことをきっかけに、太刀には大きく反りがつけられて彎刀の形になりました。反りがついたことで、実戦的な刀の形に変わったといえます。また、刀剣の形式や外装によって、兵仗用(戦闘用である武器の用途)か儀仗用(儀式で使う用途)で区別をする制度ができました。兵仗用のものには、金地螺鈿毛抜形太刀(きんいかけじらでんけぬきがたたち)、儀仗用のものとしては、梨地螺鈿金荘飾剣(なしじらでんきんそうかざたち)などが用いられるようになったそうです。毛抜形太刀は茎の部分に古代の毛抜に似たような輪郭を透彫にしていたために、このような名前がついたとされています。柄の部分には冑金(かぶとがね)、覆輪を施していますが、柄木がついていないことが特徴な、特殊な形状を持った刀剣と言えます。春日大社や伊勢神宮などにも所蔵されており、平安時代(十二世紀末)まで使われたと考えられているそうです。鎌倉時代以降になると毛抜の透彫が立体的な金具に変わり、目貫として柄に打たれるようになりました。実戦で使われる刀であるために、全体的に雄建さが見られます。対して飾刀の方は武器としては使わないために、薄く平らな鉄芯を刀身としています。外装は柄に白鮫皮を着せており、柄頭・足金物・責金・石突の部分に、鍍金唐草文を透彫で表している長金物を入れることを大きな特徴としている刀と言えます。装飾に力を入れていることから飾県の名前がつけられています。正倉院の金銀鈿荘唐大刀が、祖とされると考えられています。