日本刀の選び方

初心者が多く悩むケースの1つとしてあげられるのは、かたなの長さをどのようにきめればよいのかという事であるようです。日本刀には長さが取り決められておらず、ある程度の長さまでは許容されていたため、自分の身長に基づいてはかられることもあったという話もつたわっているようですから、面白いところであるかもしれませんね。他にも、刀の重さなどは決めるさいにとても難しい問題となるようで、それは現代の模造刀を購入する際にも全く同じであるということはいえるかもしれません。基本はじぶんで扱える長さや重さの限界に当たるかたなを購入することが重要なわけですが、模造刀であっても自分に一番しっくりときたものを購入したいという気持ちも確かにあるでしょうし、このような点はとても考慮すべき問題であると言えるでしょうね。このような道具にまつわる目利きのようなものは、長く専門店を経営しているベテランの店員などでなければまったくわからないということもあるようですから、注意しておくことが必要だといえるでしょう。模造刀とはいえども日本刀を模して造られたものであるため、そのかちは決して色褪せませんし、むしる、扱いやすいという点において言えば、日本刀よりも気軽に手に取って触れることもできるわけですから、愛着がわくものであるかもしれません。よく「武士にとって日本刀は自分の身替わりであった」ということばが残されているということを聞く人も多いかも知れませんが、このような考え方こそ、まさに模造刀などを用いるさいには重要になってくると言えるのでしょう。自分自身と刀を重ねて考えることで、鍛錬に集中していたということは一般的に言われている事です。

実際の合戦での刀の使用方法

次は、実際に戦国時代にどのように刀が使用されていたのかをみていきましょう。
戦国時代の合戦風景と聞くと、おおよそテレビドラマや映画でよく見かける合戦シーンをイメージする方が多いのではないでしょうか。騎馬武者や武装をした兵士たちが正面からぶつかり合い、槍や刀を手に混戦を繰り広げるなどといったシーンが思い浮かぶかと思います。しかし、こうした白兵戦は実に稀な存在だったと言われています。其の歴史がわかるもととして軍忠状という物が多く遺されています。軍忠状とは合戦の参加者が指揮官に戦働きを示す報告書であり、自分や部下の負傷などについても事細かく記載されています。 歴史研究者の集計結果によると、鉄砲が普及する前は弓矢による矢傷がメインであり、鉄砲の普及後は銃撃による負傷が最多であったということがわかっています。次に弓矢や槍による傷が多く、投石や攻城戦での落とし石である石・礫による傷が多く、刀傷は最も少ないということがわかっています。刀は大将から兵卒まで帯びて戦場に繰り出しており、戦場に最も多く持ち込まれた武器であるにも関わらず、最も使う機会の少ない武器であることが、軍忠状という証拠品からわかった事実だったのです。 刀を使う機会が皆無だった訳ではありません。ただ、刀を抜くのは鉄砲・弓矢・槍などを使い切ってしまい、刀で身を守るしかないときや、合戦の終盤で自身の武功の証としての「首取り」を行うときに限られていたそうです。実際の合戦場における刀の出番は、現代の私たちが考える以上に少なかったのです。武士にとって刀は最終手段であったことがわかります。そのため、刀の技術を鍛錬しておくことは最後に自分の命を守れるか、終盤での負けられない戦いに勝つことができるかという切羽詰まった状況で使用することが多かったと思われます。刀も貴重さが戦い方からも伝わってきます。

室町時代の最大の財源は日本刀だった

室町時代 (1336~1573年) の日本は世界でも有数の武器輸出国でした。主な輸出物となったのは日本刀であり、中国の明王朝 (1368~1644年)に大量の日本製刀剣が輸出されていたことがわかっています。室町時代に輸出が盛んであったと記述しましたが、日本からの刀剣輸出は室町時代に始まったことではないのです。もっと昔である平安時代 ( 794~1185年)にはすでに明王朝樹立前に中国大陸を支配していた宋王朝(960~1279年)に日本刀を輸出していました。そのころから、切れ味が鋭く、珠のように美しい日本製刀剣はとても良いと評判になり、同時代の文学者・詩人・歴史学者である欧陽脩という人物が「日本刀歌」を詠んで、絶賛されました。それほど、日本刀は昔から優れたものだったことがわかります。しかし、なぜ室町時代から輸出が盛んになったかというと、室町時代以前の日本は刀剣の製造技術がまだ発展途上段階にあり、大量生産ができなかったためです。この点からも日本刀を作るのは、簡単なことではないことが伺えます。長い時代を経て、日本刀の良さをそのまま残しつつ、大量生産できるように製造技術が向上しました。そのため、製造技術が向上した室町時代に入ってから、輸出が盛んになったのです。この製造技術の向上に伴い、日本刀の製造は量産化に変化していき、 日本は武器輸出大国として世界に認められるようになっていきました。
中国では、日本刀 「倭刀(わとう)」とも呼ばれており、当時の中国人の多くは日本刀を持っていたと中国の歴史的書物にも記されています。このように、室町時代には多くの日本刀なども刀剣を輸出し経済を回していました。日本刀は室町時代の最大の日本の財源だったと言われています。

同田貫正国

同田貫(どうだぬき)は九州肥後国菊池の同田貫(地名)を本拠地に活躍した肥後刀工の一軍です。

活躍時期は永禄頃。銘を九州肥後同田貫、肥後州同田貫、肥後国菊池住同田貫などと切り、刀工の名である個銘もあります。中でもよく知られているのは、戦国武将である加藤清正から一字を授かったという切名の正国(九州肥後同田貫藤原正国)(上野介)ではないでしょうか。もともと同田貫は加藤清正の抱えであったとも伝えられています。

同田貫の特徴とも言えるのは、装飾を全くと言っていいほど加えない、どこまでも質素な造りをしているので作柄の出来や観賞価値に乏しい作刀が多いとみなされていることです。著名で高価なのですが、美術品としての評価は低い刀工群であり、いわゆる剛刀と呼ばれるたぐいの刀が同田貫の刀だそうです。

逸話として有名なのは、天覧兜割りです。1880年代に東京府の伏見宮貞愛天皇の行幸があり、この中で行われた刀での鉢試しが「天覧兜割り」とよばれています。行った人物は榊原鍵吉(さかきばらけんきち)です。

榊原鍵吉は同田貫を用いて、明珍作の十二間筋の兜を切り口三寸五分、深さ五分切り込むことに成功しました。それにより伏見宮から金10円が下賜されました。この天覧兜割りは榊原鍵吉の剣豪としての名声を高めただけでなく、同田貫の強度を物語る逸話として広く知られることになりました。

また、同田貫はフィクションでも使用されており、様々な時代劇などで色々な役者扮する人物が手にしており、それも名を広めた一員のひとつでしょう。
熊本市の本妙寺に遺る同田貫正国の刀は熊本県指定重要文化財となっています。同田貫の鍛刀技術は現在は途絶えたとされています。

武士じゃない人にとっての日本刀

江戸時代の初期は、町人も日本刀を持つことは自由にできました。
お犬様の件で有名な徳川綱吉のときに、町人の日本刀の携行が禁止されます。これは治安維持のためではなくて、贅沢禁止のためだといいます。身分相応の格好をしろということらしいですが、特別な功績を上げた人なら町人であっても帯刀を許されたそうです。
また旅人は、護身用として帯刀を認められていたとか。「道中差し」というのは聞いたことがあるかもしれません。山の中で山賊などに襲われることもあるかもしれませんから、帯刀しておいた方がいいような気がします。
歌舞伎の舞台では刀がよく出てきますが、もちろん作りものです。
殺陣という言葉は今の舞台や映画、テレビ界でも使いますが、歌舞伎で戦う場面のことを「たて」ということから始まったそうです。
この作り物の殺陣と、本当に斬ったりする武士の戦いがごっちゃになってしまって、腕の立つ武芸者などは、時代劇のスターのような殺陣をするのかなと思っていました。
武芸には型があるので、構えや緊迫感は映画のような形があるのかもしれませんが、やはり斬られるわけですから、形を考える暇などないような気がします。
また、スパッと斬れる刀ばかりではないようですし。
某御前前試合の様子を小説にしたものを読んだことがありますが、真剣でたたかうというのは途方もないことだと思います。
とはいえ時代劇に殺陣は必要不可欠なものです。スピード感や迫力、そして美しさを追求していくのは当たり前です。
日本刀に魅せられた人々は、刀自体の美しさとともにそれを使う人にも美しさを求めるようです。
とはいえ、居合抜きなどで使う以外で、人の生死の中で使う真剣は、美しさなんてどうでも良いような気もしますが、逆に生死がかかっているからこそ、美しくないといけないような気もします。

謎を解き明かした鉄の剣

現存している日本刀の中で、歴史の謎を解き明かしたものとして知られている剣と言えば、埼玉県行田市の前方後円墳「稲荷山古墳」から発見されたとされる鉄の剣が有名であると言えるではないでしょうか。この鉄剣は、発見された当時から騒がれていたわけではなく、保存処理を施していた時に、金象般の銘文が発見されたことで注目を浴びたとされており、その銘文は、他に類を見ないほどの長文であった事に加え、銘文の一部が「獲加多支歯大王」と判読されたことから世間を騒がせたとされているようです。「獲加多支歯大王」は「ワカタケル大王」と読み、雄略天皇のことを指しているとされています。この銘文の内容は「ヲアケ」という人物と、その祖先たちの功績が刻まれているとされており、かつて、彼らがワカタケル大王のかたわらに居て、この大王の天下統一という偉業をサポートしていたという事が記されていたようです。この鉄剣の銘文が判読されるまでは、歴史上、畿内のヤマト政権の勢力は5世紀の後半、関東にまで及んでいたかもしれないという点で確証が得られず、長らく迷宮入りの歴史として位置づけられていたとされており、この鉄剣の銘文の発見により、歴史の穴埋めとなる貴重な証拠として重大な宝剣として扱われ他とされているようです。この明文により、かつて地方の首長クラスの人物たちが大王の覇業を手伝わされたとするのは、支配に服していたからという事実が解明され、5世紀の後半には、ヤマト政権が関東を支配していたということが証明されたと言われているようです。このように、古くから刀剣は武器以外での役目も習慣化されていたということがうかがえるのではないでしょうか。

山本兼一氏と日本刀

山本兼一氏は1956年、京都市生まれた人物です。大学は同志社大学を卒業、その後、出版社に勤務した後に、フリーランスのライターを経て作家になった人物です。2002年、『戦国秘録 白鷹伝」(祥伝社)で作家デビューしました。2004年、『火天の城』(文塞春秋)で第 11回松本清張賞を受賞しています。2009年、『利休にたずおよ(PHP研究所)』で第 140回直木賞を受賞しました。その他の著作に、 『いっしん虎徹』(文義春秋)、『狂い咲き正宗一一万剣商ち ょうじ屋光三郎』(講談社)などがあります。2014年2月13目、肺腺癌のため死去しました。享年は57歳です。最期の作品となった「平安楽土」(雑誌『中央公論』に連載していました)の最後の原稿を編集者に送ったのは死去前日、亡くなる約5時間半前でした。

「江と化け物は見たことがない」

本阿弥家からのお墨付きをもらうまでは、決して名声を集めていたわけではない江義弘という刀があります。
義弘の作はすべて無銘で作刀数は少なく、本阿弥家が極めをつけたもののみが存在します。
これが由縁で、「江と化け物は見たことがない」と言われるようになった希少性が特徴的です。

その作風は、正宗によって完成された相模鍛冶・相州伝の影響を受けています。
そのため「正宗十哲」という正宗の高弟10名の中のひとりに数えられています。しかし、この10名すべてが正宗の直弟子であったわけではなさそうです。

現存する日本刀

ここでは、現存する国宝や重要文化財など、世界でも有名な日本刀を紹介します。

太刀・大太刀(国宝)
平安時代後期から室町時代初期にかけて作られた刀で、特徴として反りの大きな刀です。
ここでは、国宝に指定されている刀を紹介します。

・三日月宗近(みかづきむねちか)
三条宗近による太刀です。
刀身に三日月形の刃文が見られることで、「三日月」と呼ばれるようになりました。
鎬造りで庵棟、腰の反り高く、小鋒詰る。
刃文は、小乱れに小足入り、刃に沿って沸と匂で半月形の打ちのけ。
国宝に指定されており、天下五剣のなかの一つで、最も美しいと言われています。
東京国立博物館に所蔵されています。

・大典太光世(おおてんたみつよ)
三池派の三池典太光世(みいけでんたみつよ)による太刀です。
茎から刀身の1/5ぐらいまでに鎬筋にそって腰樋が入っています。
そして、短めの刀身に対して、身幅が広いという独特な特徴があります。
国宝に指定されており、天下五剣のなかの一つです。
前田育徳会に所蔵されています。

・童子切安綱(どうじぎりやすつな)
大原安綱による太刀です。
源頼光が丹波国大江山の酒呑童子を斬ったという伝説があり、「童子切」と呼ばれるようになったと言われています。
鎬造りで、庵棟で、小鋒です。
刃文は、小乱れ・小丁字ごころ・小互の目交じりです。
国宝に指定されており、天下五剣のなかの一つです。
東京国立博物館に所蔵されています。

多様な表情を持つ鉄のすばらしさ

鉄は広く流通し、私たちの身の回りに必ずあり、とても面白い金属です。なぜなら、地下に存在するマグマ、体内を流れる血液中の色素たんぱく質であるヘモグロビン、そのどちらも鉄が含まれています。

「あなたは金属と言えば、何を思い浮かべますか。」と質問したとき、ほとんどの人が「鉄」と答えると思います。他には「金」「銀」「銅」などを答える人もいるかもしれません。金・銀・銅は、その単体で美しい色を持っているとして、珍しく扱われてきました。奈良時代には、金・銀が財宝の象徴であると謳った短歌もあるとされています。また、その時代には、金は“くがね・こがね”、銀は“しろがね”、銅は“あかがね”、そして鉄は“くろがね”と呼ばれていたそうです。金・銀・銅は世界共通で、財宝として考えられていますが、あえて鉄(くろがね)に多くの日本人が、魅了されていると感じるのはなぜでしょうか。

「鉄は何色ですか。」と質問したとき、「灰色」「ねずみ色」「シルバー」などの答えが返ってくると思います。それは、包丁・ナイフ・日本刀など、刃物を想像して鉄と結び付けるからでしょう。昔の人がなぜ鉄に“くろがね”と名付けたのかは、明確にはなっていません。しかし、鉄で出来た製品の常に手が触れるようなところは、黒錆で光沢のある美しい黒色になることがあります。これは四三酸化鉄によって、鉄の表面が覆われ、内部の酸化を防いでくれる効果があります。一方、第二酸化鉄は赤色をしていて、顔料として使われることがあります。この黒色も赤色もそれぞれ鉄の持つ違った面です。また。鉄は水気があればすぐに、赤茶色になり錆びてしまいます。

このように鉄は、人の手の加え方によって、多様な色の表情を見せてくれます。その多種多様さが鉄の魅力かもしれません。