「刃文」いついて

作刀工程の山場ともいえる「焼き入れ」により生み出された「焼き刃」は、刃を強くすると同時 に、 美しい「刃文」を生み出す。この刃文もまた、 日本刀の重要鑑賞ポイントだ。 間違えやすいのは、博物館や刀剣店などで、ケ ース越しからでも見える白っぽい刃文は本来の刃文ではないということ。これは、 研師による「刃取り」という作業によって、刃文を白く美しく仕上げたもの。化粧を施した姿のようなものである。本来の刃文は、ある角度で刀身に電灯の光を当てると見えてくる。 すぐはみだれば 刃文は「直刃」と「乱刃」に大別される。直刃は刃と平行にまっすぐ入った刃文 で、その幅の広さによって「細直刃」「広直刃」「中直刃」などに分類される。 直刃以外のものは乱刃。乱刃は形によって、さまざまな種類に分類されます。

水心子正秀

幕末の動乱を生き抜いた勝海舟(かつかいしゅう)は、何度も命を狙われたが、自分では決して相手を殺すことはしなかった。晩年の勝海舟の談話を記録した『海舟座談(かいしゅうざだん)』(巌本善治編集/岩波書庫)の中で、こう誇らしげに語っている。

「私は人を殺すのが大嫌ひで、一人でも殺したものはないよ。みんな逃して、殺すベきものでも、マアマアと言って放って置いた。(中略)私が殺されなかったのは、無辜(むこ…罪のない人)を殺さなかった故かも知れんよ。刀でも、ひどく丈夫に結えて、決して抜けないようにしてあった。人に斬られても、こちらは斬らぬといふ覚悟だった。ナニ蚤や虱だと思へばいいのさ。肩につかまって、チクリチクリと刺してもただかゆいだけだ、生命に関りはしないよ」

こう語る勝海舟が所持する日本刀は、水心子正秀(すいしんしまさひで)。江戸時代後期の刀匠である。 正秀が活躍する少し前の江戸中期は、戦などはるか昔のこととして忘れ去られた泰平の世であった。武器であったはずの日本刀は装身具と化し、華やかさこそが優先され、鋭利強靭な日本刀は希少となる。やがて、江戸末期・文化文政のころになると、尊王攘夷(そんのうじょうい…君主を尊び外敵を排斥する)の声高く、物情騒然となった。そうした世相に合わせ、刀剣界にも転換期がやってくる。その中心となったのが、水心子正秀だ。 「簡素化された新刀の鍛刀法を改め、古刀の鍛錬法に復元すべきである。

もういちど鎌倉時代の古作の備前(びぜん)や相州伝のように、砂鉄から鍛錬する古法に則した一貫作業を行うべきである」 と提唱し、諸国の刀匠たちの共鳴を得て、泰平の世で衰退しつつあった日本刀に大きな影響を与えた。実際、正秀の作品には実用的な剛刀が多く見られる。 勝海舟の抜かない刀がこの正秀の作というのは意外なようだが、剣と禅(ぜん)とを極めた勝海舟だからこそ使いこなせた剛刀なのだろう。

地肌について

「造り込み」とともに、日本刀を鑑賞するうえでおさえておきたいのが、「地肌(じはだ…地鉄と表現することもある)」である。 地肌とは、折り返し鍛錬を行うことによってできる「地(焼き入れされていない部分)」の模様のこと。一見何の模様もないように見える「地」だが、よく見てみる と、日本刀一本一本に、独特の模様が存在する。これは、炭素の量の異なる材料を組み合わせて折り返し鍛錬を行うことで生じる模様で、炭素が多い部分が黒っぽく 見えるために生じる現象である。材料となる鋼をどのように折り返して鍛えるかによって模様が決まることから、 作られた時代や地域を知る手がかりの一つになる。

「板目肌(いためはだ)」「杢目肌(もくめはだ)」「柾目肌(まさめはだ)」「綾杉肌(あやすぎはだ)」「梨子地肌(なしじはだ)」などに大別されるが、溶かした鉄を鋳型(いがた)に流し入れて作る鉄製品には決して見られない独特の模様であり、日本刀鑑賞の醍醐味ともいえる。

・板目肌……木の板の模様に似た地肌で、もっとも多くの日本刀に見られる地肌といわれている。板目肌の中でも模様の大きいものは大板目(おおいため)、小さいものは小板目(こいため)と呼ばれる。
・杢目肌……板目肌の一種だが、丸い年輪のような模様が顕著。五箇伝の中の備前伝によく見られ、模様の大小によって大杢目(おおもくめ)、小杢目(こもくめ)と呼ばれる。
・柾目肌……柾目(木を縦に切った時の模様)に似ていることから名付けられた地肌で、大和伝によく見られる。
・綾杉肌……柾目肌が大きく波打ったような模様。五箇伝の中にある流派ではないが、奥州(おうしゅう)・月山(がっさん)を拠点とし、鎌倉から室町にかけて活躍した刀匠集団「月山一派」によく見られる。
・梨子地肌……小板目、小杢目がさらにきめ細かく、蒔絵の梨子地に似た地肌。山城伝によく見られる。
・板目に柾固まじり……板目肌に柾目肌がまざった模様。大和伝によく見られる。

「精緻な鍔」

鍔には2種類の形があり、室町時代以前は太刀鍔、安土桃山時代以降は刀鍔が多く制作された。江戸時代中期以降は調金技法などが発達し名工も輩出された。

 <投桐透図鍔>なげきりすかしずつば

  無銘 神吉

  正式名称・・・鉄地堅丸形毛彫地透

  制作年・・・江戸時代後期

  サイズ・・・縦8.02cm 横7.65cm

  全面が透かし彫りになっている。描かれているのは丸窓に映った桐樹の陰影、もしくは丸い鉢

 に生けられた桐の一枝との印象を受ける。

 <月見兎図鍔>

  銘・・・ 政次作

  正式名称・・・鉄地木瓜形高彫金銀象嵌陰透

  作者・・・石黒政次

  制作年・・・江戸時代後期

  サイズ・・・縦8.0cm 横7.25cm

  月夜に遊ぶ兎を題材に、秋草が高彫に金銀象嵌で描かれ兎を陰影で印象的に表現している。

 雲間の月明かりを透かして表現した洒落たものです。

「拵の美」

刀身を収める鞘や、茎を入れる柄や鍔の装飾を拵えという。もとは刀身の保護が目的だったが、持ち主の嗜好や時代の流行が反映され、金工や漆工などの高い技術を用いたものも多い。

<小烏丸>こがらすまる

  正式名称・・・太刀無銘伝天国

伊勢神宮からの使いの大烏が、桓武天皇にもたらしたという逸話から「小烏」という名がついた。拵えは明治時代に作り直されたもので小烏丸のように刀身と拵が別々の制作年であることは珍しくない。雲龍模様の錦で柄の部分まで装飾されており、これは1800年代に編纂された史料を元に制作された。

 <朱漆雲龍蒔絵大小拵>しゅうんりゅうまきえだいしょうこしらえ

加賀百万石を成し遂げた戦国武将・前田利家。派手な立ち居振る舞いを好む「かぶき者」として知られている利家だが、彼が有していた打刀と脇差も、「かぶき者」の名にふさわしく、拵えは鮮やかな朱漆塗りで派手な佇まいとなっている。雲龍が蒔絵で描かれており、利家の嗜好がわかる二振りです。

鑑定書

今の協会はいわばプロモーターとオーナーが一緒ということです。鑑定部は独立する。そして鑑定に専念する。審査員も自分が得意のところだけを鑑定し、わからぬところは合議性制にすればいい。認定書問題は外部の人達や反主流派だけでなく協会の内部からも批判が強まっているようである。ともあれ、この認定書問題は、様々な形でこれからの刀剣界に波紋を投げ続けるだろう。

正真と傑作を第一に・・・位列にとらわれぬ保存会の鑑定日本美術刀剣保存協会の認定書とは別に日本刀剣保存会にも鑑定書がある。二十九年に保存会を復活したのですが、はじめは鑑定書など出す考えがなかったが、しかし日本美術刀剣保存協会の認定書に対する批判が大きくなり、会員の間にもちゃんとしたものを出そうということになり、三十年から出すように決めました。審査の基準は正真ということがもちろん第一ですが、二流工、三流工の刀でも優秀なものはどしどし取り上げていきます。その辺が協会の重刀のように高位高名中心とは違ったところです。この鑑定書は、高名ものならば少し疲れていても―という協会風なやり方ではありませんから、例えば清麿持ってきても七十点の清麿、六十点の清麿ということになってしまいます。とにかくこの会の鑑定書は、金銭的な利益という面からは、協会の○特や重刀よりうんと低く見られています。しかし、こういうやり方をやっていると回の財政は苦しいんですが、金銭で愛刀家や業者と癒着してはいけないと思い、がまんしながら会員の会費だけでやっているんです。そのかわり鑑定書だけは厳しすぎるぐらい厳しくして、後世の人に笑われないようにと考えています。鑑定書は日本刀剣保存会だけではなく、伝統を誇る本阿弥家のうち本阿弥日州氏も古式にのっとった折紙を発行している。

蝉丸

山形県最上地方の亀割山の南麓、小国川に沿って静かな佇まいの温泉郷「瀬見温泉」がある。義経が頼朝に追われて、陸奥国(岩手県)平泉を目指していた時、義経の奥方(静御前)が急に産気づいた。弁慶が産湯を探して、川辺に岩の割れ目をみつけ、持っていた薙刀「蝉丸」で岩を砕いた。すると中から温泉が湧きでてきたという。これが瀬見温泉の発祥で、弁慶の薙刀「蝉丸」に由来して長付けられたと言われる。瀬見温泉の近くには、弁慶が放り投げた岩や松の木、弁慶が座った岩など、多くの遺跡が残っている。

日本刀の焼き入れ

刀の世界とは関係のない人間が「焼きを入れる」といえば、制裁や拷問を加えるといった意味で使われ、何とも物騎な話だが、もともとは、ご推察のとおり、作刀工程の一つ、「焼き入れ」からきた言葉である。 焼き入れをすることで刃が硬くなるばかりでなく、日本刀鑑賞の重要ポイントで もある「刃文」があらわれ、「反り」が生まれる。まさに。刀に命を吹き込む瞬間 である。それと同時に、失敗すれば「焼き割れ」といって刀身にひび割れが入るこ ともあり、そうなると命が吹き込まれるどころか、これまでの思い入れと共に刀身 はオシャカとなる。 かしわで この神聖な焼き入れの日には、刀匠は神棚を清めて柏手をうち、成功を祈るのだ。 ひのき また、「焼き船」と呼ばれる、焼いた刀身を水(ぬるま湯)で冷やすための槍の水槽 は、縁起をかついで。割れない。数字「七尺」であつらえる刀匠も多い。 焼き入れは夜、すべての明かりを消して行われる。焼かれた刀身が赤くなるその微 妙な火加減を見落とさないためだ。全体に火が通り、ここぞという瞬間に火から出 して、焼き船で急冷する。このぬるま湯の温度が非常に重要で、焼き割れの原因と いっしそうでん なったり刃の硬さにも大きく影響することから、一子相伝の秘密ともされている。 師匠の目を盗んで湯船に手を入れ、その適温を盗んだ弟子が、師匠に腕を切り落と されたという話も伝えられている。

備前長船長光の日本刀

備前長光派を代表する鎌倉時代後期の刀匠「大般若長光」「物干し竿」の作者であり六振りの作品が国宝に指定されている。長光作といわれるが、現存しない詳細不明の太刀がある。「小豆長光」と呼ばれ、上杉謙信が所有していた。川中島の戦いで、武田信玄に単騎で切りこんだときに持っていたのが、この小豆長光とも言われている。